恐怖の頭脳改革

大罪を犯して人間としての苦役を背負ったパグ犬が必死に頭を使って考え事をする場所。

えいえい、怒った?

怒ってないよ。ご無沙汰してます。
ほんとはタイトルのネタが割とホットだったころに書いてた記事だったんですが、
仕事が忙しくなったという言い訳の下ですっかり更新せずに放置していました。

今日考えたいのは「怒る」ということについてです。
僕は日常においてほとんど怒ることがありません。優しいので。
優しい人はホントは無関心なだけなんだよ、冷たいんだよとかいうふざけた話がたまにSNSに出回りますよね。
穏やかさ日本代表としては、うるせえ!って思いますよ。怒らない人は優しいんだよ!優しい人は優しいんだよ!いいだろそれで!


怒ってんじゃねえか


日常の中の怒り:怒りとマナー

最近、「それ、あなた自身の怒りなの?」と思うことが結構あります。たとえば、よくあるのがマナーの問題。他人の家に行くときは靴下を持って行くとか、そういう実用的な理由があるものならわかります。ただ、ビール瓶のラベルを上に向けるだとかって話、あれを破って何か損はあるのかなと思うことが結構あります。少なくとも僕は全く気になりません。あくまで僕は、です。銘柄が見たいのに見れないだとか、そういう理由で怒る人のことは尊重します。それは立派なひとつの感情です。

ただ、「マナー違反だから怒る」って、僕はちょっと違うんじゃないかと思います。日本人は特に陥りがちな気がしますが、その場合、現実より先にルールを置いてしまってるわけです。現実問題として不愉快だったから、それを今後防ぐための共通の取り決めとしてマナーやルールを設定するというのが、本来の流れのはずです。まずルールありきじゃない。マジで怒ってるなら仕方がないと思いますが、ルールを破ったことを理由に怒るのは深夜に赤信号を渡って問答無用でしょっぴかれるようなナンセンスさを感じずにはいられないです。

仕事の中の怒り:怒ることと叱ること

日本語の長所のひとつに、あいまいさがあります。ひとつの語にいろいろな語義を載せられることは、俳句や漫画など短いテキストで勝負するカルチャーが進歩してきた大きな背景のひとつに間違いありません。けれど、語義を曖昧に出来るがゆえに、深刻な混同が起きてしまう弊害もあります。「怒る」と「叱る」もそのひとつ。相手の行動に修正が必要な場合、感情を乗せる必要は基本的にありません。ただ間違いを指摘し、場合によっては修正手段まで伝えればいいだけのこと。これが「叱る」ということです、

一方、感情を乗せて恐怖や嫌悪と共に記憶に刻まないと覚えられないこともあるとは思います。この場合が、「怒る」ということ。特に僕は調子に乗りやすいので、ガツンといわれないと理解できないことも結構あります。とはいえ、基本的に感情がぶつかると人間関係に不可逆の変化が起こるので、それをやるのは最後の手段のはずです。そこのところをあんまり考えずに、ただ叱ればいい場面で怒ってる人、多いんじゃないでしょうか。

誰もが怒る理由を探している

今回言いたかったのは、どうにも最近、不必要な怒りがちまたに渦巻きすぎではないかということです。 別によくよく調べたら今に始まったことじゃないのかもしれないですが。
なんでそれがいけないのかをロジカルに説明する元気はあんまりないんですが、ちょっと感覚的にはあんまり良いことではない気がしますね。できることなら消えてほしい風潮です。

たぶん、キーワードは「自分」です。
これだけネットに情報があふれてると、ろくでもない話がいっぱいあります。そうすると、自分のことじゃないのに怒りたくなっちゃうことってまぁ結構ありますよね。ジェンダーの話とか、世代間対立とかが割と多いですが、ちょっと立ち止まって考えてみてほしい。ネットっていくらでも嘘が書けるんですよ。他人の嘘っぱちにキレてエネルギー使うの、あまりにばかばかしいでしょう。
しかも、義憤って無料の麻薬なんですよ。けしからん!とガツンと言ってやると本当に気持ちいい。けど麻薬なのでヤバいです。それが癖になるとどうなるかというと、 権利を侵害されたと感じたから、不条理だと感じたから、無礼だと感じたから怒るのではなく、「他人にケチをつけたいから怒る」っていう思考に切り替わります。怒るのが気持ちいいからその理由を探す。こうなっちゃうともうおしまいです。

せめて僕と、僕の周りにいる人にはそうなってほしくないなと思います。
深夜に140文字で怨嗟を吐き出しそうになるとき、自分はこの怒りの主なんだろうか?という自問を頭の片隅に置いておきたいですね。