恐怖の頭脳改革

大罪を犯して人間としての苦役を背負ったパグ犬が必死に頭を使って考え事をする場所。

卍解習得と医学部合格はどちらが難しいのか?——ジャンプ血統至上主義という幻想

【警告】この記事は、漫画「BLEACH」の全編にわたるネタバレを含みます。

 

傘で卍解ってやったよね?

 

僕はBLEACHが大好きです。

 

尸魂界編は、あの当時のジャンプで一番刺激的な漫画だったと今でも強く思っています。今はなき渋谷こどもの城で作った木製の剣に自分で斬魄刀名を彫り込んで、解号と能力まで考えていました。夜鴉(よがらす)だった気がする。これ以上はやめよう。

 

さて、そんなBLEACHも完結から早1年半が経ちますが、今日はそのBLEACHを通して、週刊少年ジャンプにまつわる、ある「幻想」について考えてみたいと思います。

 

 

夏にはちょうど実写映画もありますし、読んだことがないという人、だいぶ前に卒業したという人のためにもどんな作品なのか簡単におさらいしておきましょう。舞台は現代の日本、日常の裏側でひそかに人々を襲う悪霊「虚(ホロウ)」と、それを退治し人々を守る霊魂の導き手「死神」の闘いを描いた漫画です。主人公は人間でありながら死神の力を手にした「死神代行」の高校生・黒崎一護(くろさきいちご)。そして、人々を護るために規則を破って死神の力を一護に譲渡した死神の少女・朽木ルキア(くちき-)。この2人を中心に、死神たちの組織「護廷十三隊(ごていじゅうさんたい)」や、死神と対立する人間の霊能力者集団「滅却師(クインシー)」を巻き込んで話は進んで行きます。

 

さて、問題はこの黒崎一護。彼は物語の中で、度々その特異性が取り沙汰されます。まずは、死神の奥義である「卍解(ばんかい)」の習得です。死神の中でも一握りのエリートだけが10年以上にわたる修行でようやく習得できるという秘儀中の秘儀ですが、一護はこれを数日足らずで習得します。次は、「虚化(ホロウか)」。死神は悪霊である虚を狩る存在ですが、一部の死神は敵である虚の力を取り込むことによって更なる力を発揮できます。その特性を、彼は最初から備えていました。

 

そして、この特異性の原因として満を持して語られるのが、彼の家系です。中盤以降、父・黒崎一心が元死神であること、そして亡くなった母・黒崎真咲が滅却師であることが立て続けに発覚します。そのうえ両者とも並みひととおりの存在ではなく、前者は何千人という死神を束ねる十三人の隊長のひとり、後者は絶滅寸前の滅却師同士の間に生まれた純血の滅却師でした。

 

そう。今日のテーマはジャンプの「血統至上主義」です。

 

「友情・努力・勝利」の呪縛

熱が入って頭に血がのぼる前に、血統至上主義批判が何を指すのかを整理しておきます。誰かが統一的な見解を発表しているわけではないので難しいですが、おそらく「結局、主人公は血筋ですべてを解決している」という批判だと考えて差し支えないでしょう。こういった指摘は何も今に始まったことではなく、古くは「ドラゴンボール」の孫悟空すらもこういった攻撃の対象になってきました。

 

しかし、ことさらにジャンプだけが血統至上主義を批判されるのはなぜなのでしょうか。それは、ジャンプが持ついくつかの特殊性に起因します。


良くも悪くも週刊少年ジャンプというのは日本のコミックカルチャーの旗手としての側面が色濃いです。昨年とうとう公称発行部数が200万部を割りましたが、それでも漫画文化全体に対する影響力は言わずもがなでしょう。そのため、ある年齢層にとって漫画という文化全体の空気が馴染みづらいものに変化した時、真っ先に非難を受けやすいように思います。特に今、ジャンプは系列誌全体として長期連載を終了する方向に入っているように見えます。見知った漫画が次々と誌面を去った今、「もう読むものがない」「ジャンプは終わり」というお決まりの文句に加えて、この血統主義に対する批判もぼちぼち復活してきています。加えて、ジャンプは有名な作品コンセプトとして「友情・努力・勝利」を挙げています。血筋によってすべてを解決しているというのが事実であるなら、明らかのこのコンセプトに反しています。その点がさらにジャンプへの批判を苛烈なものにしていると考えられます。その中でもBLEACHは、先ほど確認したような設定とストーリーの影響で、特に血統主義的だという批判を受けがちです。

 

ですが、僕に言わせればBLEACHが、ひいてはジャンプが血統主義だというのはまるっきり嘘っぱちです。読み飛ばさずにここまで来ていただけた方は、オイオイちょっと待てと思われたことでしょう。なにせ一護は護廷十三隊の隊長と純血の滅却師の息子です。実際のところ、現れては消える新連載の中には明らかに血統主義に走ったものもあり、この自説が揺らぐこともあります。

 

それでも言います。ジャンプが血統主義的だというのはあまりに早計です。

 

卍解できても医者にはなれない

一護は本当に強いのか、仮に両親が一般人でも死神として覚醒したかといった作品設定上の話は水掛け論になるので、ここでは「主人公の感情の動き」と「物語の構造」の2点に絞ってお話しようと思います。

 

まず大前提として、一護は自身に死神としての高い素養があったから死神になることを選んだわけではありません。自分は霊が見えるということは認識していましたが、死神としての自身の才能はおろか死神という存在すら知らない状態で、彼は他者を助けるためにルキアの誘いに乗ります。その後も自身の出生の秘密を知るまでの間に何度か死神代行を続けるか否かの判断をする機会がありましたが、そのたびに利他的な動機で続けることを選びました。つまり、一護が死神代行になるうえで「動機に血筋は無関係」ということになります。


次は物語の構造的な話です。BLEACHの作品構造において最も優れていた点は、主人公を一貫して「よそもの」として描いた点でした。作者は、死神たちの総大将である山本元柳斎重國(やまもとげんりゅうさいしげくに)や、妹・ルキアを巡る対立を通じて一護との仲を深めた朽木白哉(-びゃくや)の口を通して、度々「一護に死神たちの問題を解決させるのは筋違い」だと言わせています。また、死神たちは霊魂と共に「尸魂界(ソウル・ソサエティ)」という世界に住んでおり、それぞれ住居や家族を持っています。ですが、一護は毎回トラブルが解決するたびに必ず人間界へと帰っています。結果として、一護は死神としての力の研鑽のほかに、引き続き自分自身の努力によって自分の人生を守っていかなければならないという二重構造が成立しました。実際、作中では死神代行としての活動が度を越して高校の成績が落ちたことを悔やむ描写もありました。つまり、死神としてどんなに強くなろうと、人間・黒崎一護の人生においては全く無意味ということです。

 

BLEACHは設定の変遷が多いと揶揄されることもありますが、この点においては本当に第1話から最終話まで終始一貫していました。


この優れた構造は、BLEACHの最終回において非常に端的に表れています。結構多くの人が死神であるルキアと結ばれると考えていたようですが、実際には同じ人間として一護をサポートしていた井上織姫(いのうえおりひめ)と結婚しました。一方のルキアは同じく主人公パーティの1人として最後まで戦った阿散井恋次(あばらいれんじ)という死神と結ばれます。あくまで死神は死神、人間は人間と一緒にいるのが良いというわけです。

もう1つは一護の進路です。明言はされていないですが、描写から見て父の開いた小さな病院を継いだとみて間違いないでしょう。彼は、間違っても死神代行で食って行こうなどとは考えませんでした。そして、医師は国家資格ですので、必ず大学の医学部を出て医師免許を取得しなければなりません。父が医者であろうと死神であろうと、彼自身が試験に受からなければどうしようもありません。ここでタイトル回収。では、彼が死神として優秀で、卍解虚化ができることは、彼が医学部に合格し医師免許を取得するうえで何か役に立ったかといわれれば、たぶんそんなことはないでしょう。僕にも医師を志している友人はいますが、彼が卍解して見せてくれたことは一度もありません。実はできるのかな?もしもこれを読んでたらこっそり教えてください。

 

話を戻しましょう。一護にとっての居場所はあくまで人間の世界であり、そこでの成功は純粋に彼自身の努力によって勝ち取ったものです。

 

そして、もうひとつ重要な点があります。実際に一護は父母の高い霊的な素質を存分に生かして、神にも等しい力を持つ敵を幾度も倒しました。この点においては、確かに一護は血統によって戦っています。ですが、虚化は自身が半ば悪霊と化すような力。それゆえ一護は当初激しくこれを拒絶していました。血筋が必ずしもプラスに作用するとは限らないわけです。それに、もし彼がルキアによって死神の争いに巻き込まれたという受動的な精神性のまま戦い続けていたら、こうした素養を活用する間もなく序盤の剣八白哉、仮にうまくいっても藍染には確実に負けていたでしょう。彼が自身の血統を有効活用できたのは、闘いを通じて自身と向き合い、力を使うべき場所を自分の努力で見つけ出したからにほかなりません。


血筋は武器だが決め手じゃない

f:id:damegane_the_pug:20180414002714j:plain

©久保帯人/集英社

 

ここまでの話を、他のジャンプ作品にも拡張してみましょう。これまた僕の大好きな作品の話ですが、ジョジョの奇妙な冒険 第3部で考えてみます。主人公の空条承太郎(くうじょうじょうたろう)は、高い身体能力と高潔な精神性、そして「波紋」という異能力の素養を持つジョースター家の末裔です。彼は一族の宿敵・DIOの復活によって命の危機に瀕した母を救うため、祖父・ジョセフと共にエジプトへと向かいます。この時すでに彼は自身の特殊能力「スタンド」を手にしていましたが、仮に承太郎が物語開始時点でスタンド能力を持っていなかったとしても、「じゃあ俺エジプト行かんわ」とはいわないでしょう。本当にそうなのかは荒木飛呂彦先生に聞いてみないとわかりませんが、終盤DIOへの勝算が全くない状態でも挑みかかったあたり、スタープラチナがなかろうとDIOに挑んでいたと断言しても差し支えないはずです。そして、その勇気によって彼は、血筋によって獲得したスタンド・スタープラチナの真の能力「時間停止」を見出します。

 

この点は、一護が虚化を制御し卍解を習得した点と共通しますね。彼らは自身の無力さを言い訳にせず困難に立ち向かった報奨として、自身の血筋の有用な面を引き出す機会を与えられたわけです。この「仮に特異な能力がなくても」という仮定は非常に重要で、ジャンプ作品の主人公に対して概ね普遍的に当てはまります。無論例外を探そうと思えば出てきますが、それでも「ジャンプは大半の作品が血統主義的だ」という非難を覆しうる割合で当てはまるでしょう。

 

結局のところジャンプが言いたいのは、特定の血筋が最初から優位だというのではなく、努力によって自分が持つ力の活用法を見出し、それに基づいて友を助け、そして勝利を掴めということなんじゃないでしょうか。つまり、読者に対して、君の父が波風ミナト、あるいは黒崎一心であった場所はどこなのか・そして君が北斗神拳継承者や飛天御剣流継承者である場所はどこなのかをを探せと投げかける――それがジャンプ的な「努力」の示すところなのだと思います。以上が僕の思う「友情・努力・勝利」の本質であり、血統至上主義は幻想だと考えているワケのすべてです。

 

 

漫画は特にこだわりの強い分野なので非常に散らかった文章になってしまいましたが、ここまで読んでくださった方は本当にありがとうございます。途中でリタイアされた方も、届いてないけどありがとうございます。そして、せっかくなので次の月曜日は久々に週刊少年ジャンプを買ってみてください。

 

年甲斐もなく少年誌を読むってのも、結構いいもんですよ。